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人生朝露

人生朝露

中島敦「名人伝」と荘子。

荘子だってば。
荘子で。

今日は「武道」の余りを。
「剣禅一味」の次は、「弓禅一味」で。

弓道。
弓道もまた、禅の心に通じる・・というのは、瞑想によって精神を集中させるという点において、剣術よりも禅との関係がわかりやすいものだと思います。

『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル著 岩波文庫。
短い本ですけど、1924年に日本にやってきたオイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』において、禅と弓との関係は、海外にも紹介されています。

ま、「弓の達人」とえいば、なんといっても、
『李陵・山月記』 中島敦著 角川文庫。
これ、でしょう。

参照:青空文庫 「名人伝」中島敦
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html

『趙の邯鄲(かんたん)の都に住む紀昌(きしょう)という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛(ひえい)に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉(りゅうよう)を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々飛衛をたずねてその門に入った。』

で始まる、中島敦の代表作のひとつです。

荘子と同じ道家『列子』の湯問篇にある飛衛と紀昌のお話と、『荘子』の田子方篇の「不射之射」のお話がメインとなっています。

参照:諸子百家争鳴 列子
http://www.sunrain.jp/zhuzi_baijia/liezi.html

ここからはネタバレ。

最後に想像を絶する修行の末、弓の境地に達した紀昌は、信じがたい変容を遂げるわけですが、これも「禅」でも使われる「荘子」の言葉、「魚を得て筌(セン)を忘る」です。いわゆる「 忘筌 ( ぼうせん ) 」をうまく使っているわけです。つまり、「荘子」に登場する数々の達人たちの生き様と、外物篇にある「忘筌」を表現しているだけ、といっていいほど、シンプルにそういう作りになっています。

日光東照宮 眠り猫。
「田舎荘子」で猫が言っていた「神武にして不殺」というヤツですよ。

Zhuangzi
『筌者所以在魚、得魚而忘筌。蹄者所以在兔、得兔而忘蹄。言者所以在意、得意而忘言。吾安得忘言之人而與之言哉。』(『荘子』 外物 第二十六)
→魚を得てしまうと、魚獲りの道具である筌(ふせご)は不要になって忘れてしまう。ウサギを獲ってしまうと、ウサギの罠の存在を忘れてしまう。言葉もまた、真意を得てしまえば価値を失い、言葉そのものを忘れてしまう。私は、どうにかして、このような言葉を忘れてしまった人と語り合いたいものだ。

目的を達すると、それに役立てた物の存在を忘れてしまう。

これは、悟りを開いた人が、言葉の存在を忘れてしまうという禅の教えにも重要な考えなわけです。「言葉」というのは、簡単な例では「経典」で、膨大な量の書物を読んで自分のものにしてしまった後、悟ってしまうと、その言葉は不要になってしまう。ということです。

これは、「維摩経(ゆいまきょう)」という経典にある「維摩の一黙」という故事にも通じると思うんです。文殊菩薩との問答(討論)の末、維摩(ゆいま)という在家の人物が、仏の教えを「沈黙」によって答えたという故事なんですが、在家の人がお釈迦様の弟子どころか、文殊菩薩をもやりこめるという変わった話です。すごく禅に近いと思ったんですけど、この故事は正法ではないと、道元が否定しています(笑)。

どちらかとうと、道元が求めているのは、老子の「知者不言、言者不知(知る者は言わず、言う者は知らず)」という方に近いのかなと。これまた仏教ではなく老荘なんですが、「本当に理解した者は、何も言わない。いろいろしゃべる者こそ、何もわかっていない。」という方かなと思います。禅宗においては、言葉の使い方が特殊でして、話せば長くなりますが、やっぱり、禅の言葉の概念そのものは、無茶苦茶深いんですよ。ただし、荘子的に解釈すると、言葉というのは「何かを区別して判断するための道具」なので、その区別を超越した存在に気づけば、言葉というものが不要になる・・と、かなり簡明に理解できてしまうんですよね。禅とは、荘子の思想の後継であると考えると、すごく簡単なんですよ。ま、この辺に関してはいずれ。

さて、「剣禅一味」「弓禅一味」のほかには「茶禅一味」といろいろな言葉があります。剣道、弓道、茶道など「道」と名のつくものに影響している「禅」との関係と、荘子と禅との関係を考えると、江戸時代の日本文化に荘子が与えた影響というのは、すさまじいものがあると思うんですよ。中国では一発で「クンフー(功夫)」として、格闘家にも、料理人にも、画家にも、音楽家にも、同じ道があるとなるわけですが、日本では、むしろ格闘技よりも「茶の湯」や「俳諧」にこそ、荘子の思想がはっきりと見えるわけです。「俳禅一味」ともいいますし。ま、それも、いずれ(笑)。

ただし、「柔禅一味」という言葉はないです。柔道は、老子だからかな・・と、勝手に考えています。むしろ、合気道こそが、最も荘子的な武道かな、と感じます。「陰陽の気」とか「天人合一」の思想はモロですが、もっと根本的な所にも感じるんです。

合気道。

参照:Wikipedia 合気道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%B0%97%E9%81%93

Zhuangzi
『船を並べて河を済(わた)るに、虚船の来たりて船に触るるあれば、偏心のあるの人と雖も怒らず。一人其の上に在るあれば、則ち呼びてこれを張歙(ちょうきゅう)せしむ。一たび呼びて聞かれず、再び呼びて聞かれず。是において三たび呼ばんか、則ち必ず悪声を以ってこれに随(したが)わん。向には怒らずして今や怒るは、向には虚にして今は実なればなり。人能く己を虚にして以って世に遊べば、其れ、孰か能くこれを害せん。」(『荘子』山水 第二十)
→「虚船」もしくは「虚舟」というものですが、簡単に言うと、ボートに乗っていて、他のボートがぶつかってきた、とします。人が乗っていないボートとぶつかっても、人は何も怒らないでしょう。でも、もし、ぶつかったボートに誰かが乗っていたら、人は相手に罵詈雑言を浴びせるようになるでしょうね。もう少し分かりやすくいうと、タンスの角に足の小指をぶつけてしまうのは必要以上に痛いですけど(笑)、それで、タンスを怒るヤツはいませんよね。

もう一つが、無用の用です。

Zhuangzi
『惠子謂荘子曰、子言無用、荘子曰、知無用、而始可與言用矣、夫地非不廣且大也、人之所用容足耳、然則廁足而□塾之、致黄泉、人尚有用乎、惠子曰、無用、荘子曰、然則無用之為用也、亦明矣。』(『荘子』外物 第二十六)
→恵子が「あなたの言っていることは何も役に立たない」と言った。すると荘子は「役に立たないという意味を本当に理解してから、役に立つかどうか、ということを論じましょう。この大地はもとより広大だけども、人間がその大地を進む時に必要なのは、地に足が着いている部分だけでしょう。もし、仮に、あなたが歩く足の形に合わせて大地を残しておき、残りの全てを黄泉の国まで掘り下げてしまうとして、あなたは、そんな「底なしの大地」を役に立つと言えるのですか?」恵子「役には立たないでしょう」荘子「役に立つとか立たないとか、という視点は、そうやって考えれば答えは明白なのです。」

・・・いや、関係のない話のようで、合気道って、そういうところがあると思うんです。つまり、相手に掴みかかったのに、合気で、わけの分からないままひっくり返された時、それまで「足の裏でしか意識することのない地面」に叩きつけられてしまうわけでしょ?その時、人間は何を考えるのか?

多分、何も考えていない(笑)。

相手に怒りをもって攻撃をしていたとしても、合気をかけられた直後は、何が起きたかを理解しようとするだけでしょう。理解したとしても、怒りの矛先は天地の間で昇華して無くなってしまっている。これは、単なる打撃系の格闘技にはない地面の効用ですよね。

老子という人は、価値観を逆転させてしまうタイプの人ですけど、荘子という人は、価値観そのものを相殺しちゃうような人なんですよ。柔道と合気道の違いのような。いや、まぁ、感覚的なんですけど、合気道って、力の流れも、心の流れも全部読まれてしまっているようなところがあるじゃないですか。荘子は、人間が陥りがちな思考のパターンを見透かして先回りしていて、読む側の「思考」がありとあらゆる方法で、相殺されてしまうんです。もう、後には何にも無くなってしまうんですよ。「オレは一体今まで何を学び、何を考えてきたのだろう」と(笑)。その結果、頭が更地になってしまうんです。物の見方が変わるし、価値観も変わります。五感で感じる全て、知覚するもの全てを書き換えないといけなるなる(泣)。

特に後者の「無用の用」は、「必要」と「不要」という判断について、足の裏で感じる地面以外が「底なし」であったとき、という仮定で、人間の知覚や認識の範囲の狭さの話をしているわけで、読む側としては、今までの考え方そのもを、揺るがされてしまうんです。

荘子の時代に比べれば進歩してきたはずなのに、全く勝てないんですよ。

・・・やたらと分かりにくい話になりましたが、次はすごく分かりやすくします。
やっと裏を取りましたので、次は簡単かな。

今日はこの辺で。


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